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yuuの一人芝居

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今拓く華と路と空と風10 執筆中

今拓く華と路と空と風10

たそがれていくなかで考えたことなどを書き連ねることにしている。
これも今の現状を書いているので「自分史」として考えている。

創作秘話 「更け待ち藤戸」2016/8/10

 この作品を書いたのは私の今住んでいる在所の近くと言う事もあろう。また、鎌倉の時代を作った一つの事件があった、つまり、水島合戦で平家と源氏が戦った古戦場と言う事も関係している。
 広島、水島、児島半島の藤戸の合戦は謡曲の舞台となり「佐々木が憎けりゃ笹までにくい」と言う老婆の嘆きが今でも聞こえてくるというものだ。
 佐々木信綱と対岸に陣引くところの漁師のやりとり、に疑問をもったところからこの物語は始まって書くことにしたという事だ。
 佐々木と漁師の出会い、むしろ漁師が佐々木に浅瀬を教えるために近づいたと言う方が正論のように思えた。
 この合戦があった頃は今の倉敷は寒村で漁師たちが住んでいて自給自足をしていた。平家物語では倉敷は出てこない。
 後にこの合戦の死者を慰める藤戸寺が作られ其の参道に団子屋が屋台の店を出しまんじゅうを売っていた、それが今の倉敷の土産に使われる藤戸饅頭だったという事は有名な話しである。
 さて、ここでは老婆を大して重要視はしなかった。これは作り事としてよりほかに考えられなかったからだ。
 果たして、平家が源氏に負けると言う要素が私には見えなかった。いくら瀬戸の水軍を源氏が味方につけても、源氏は海上の合戦をした事のない軍勢である。平家はもともと瀬戸内海を自分の庭のように行き来していたのだ。清盛は瀬戸の海を自領としていた。平家が敗れたのはなぜ、内部に噴烈が生じていたと言う方が正確なのかも知れない。それは天皇にかわって一介の警護者であった武士が天下を取ると言う事に対しての反対の勢力がうごめいていた、源氏が天下を取ってもそれは武士の政治の始まりを意味していた。荒法師文覚が登場するがたかが坊主になにが出来たであろう。使い走りには役を搔いたのかも知れない、また、以比人親王の命により動いていたとしても源氏にはそんなに利益はもたらさなかったとも思える。
 清盛は白河法王と祇園女御の妹との間に生まれた実子なのである。
 これは西行を書く時に調べ上げている。また、崇徳帝は白河法皇と藤原珠子の間に生まれた子として、後に珠子が入内する鳥羽帝は忌み嫌っていた。言ってみれば清盛と崇徳は腹ちがいの兄弟なのだ。
 複雑に入り組んだ其の関係はあらゆる方向へ拡散していく。西行は清盛とは北面の武士のおりの同輩、崇徳帝とは歌で相照らすなか、西行はただ茫然と時の流れを見ているしかなかった。
 この物語は藤戸の現在を書いた。
 満月ではなく更け待ち月の夜、藤戸は涙を流す、それは息子を殺されたことへの老婆の嘆きではなく、京でなくなった一人の薄幸の人、待賢門院の嘆きとして書いた。待賢門院は白河が寵愛した藤原珠子であり、鳥羽帝に入内しての待賢門院である。
 同じ女の涙としても、其の悲しみは親子のものと、一人の女の煩悩の悲しみ、世の中の不条理に弄ばれて終わる女の哀しみ、それを更け待ちの月になぞらえて引いていく月のはかなさを、それを何時までも見つめ過ぎ去りし其の日の事を思い嘆く一人の女の涙として書いた。
 託したのは砂、其の砂の命と女の命、もろくも崩れる様は全く同質の弱さを見た。
 それは、若い男との出会い、そして別れ、何もかも振り切るように、玄関の鈴に明るく応え出て行く女、
 其の時、舞台のホリゾントは真っ赤に染まり、庭には執念のろうそくが一斉に燃えたつのだ。
 それは女の業火、弄ばれた恨みの怨念の明かり…。

倉子城物語はまとめて「倉子城草紙」として出版する。

後書きにかえて

幕末の倉敷、どのように村人は生きたのであろうかと考えていたらできあがった物です。このような営みがあっても決して不思議ではないと思う。

倉敷のあり方を思うとき何かしっくりいかないものが心に波を立たせ書いてしまっていました。
わたしは倉敷の生まれではありません。家人のふるさとなのです。だけど倉敷に来て四十三年間、倉敷を見詰め倉敷を思い生きてきました。戯曲は倉敷を題材にして沢山書き上演しました。今までの吉馴悠の戯曲は殆どが今田東の小説を脚色した物です。今田東と吉馴悠はわたしにとって双子の子供のようなものです。

六十歳で今までの過去のすべてを棄てたのですが、生きる道連れに書いていました。何か温かさをお届けできればそれに越した幸せはありません。

ここに登場する固有名詞は存在するものもあり、創作のものもあり、書き手の中では架空の物であります。また、あえてこの物語に備中弁を使いませんでした。

このような読み物をどうぞと差し出す勇気はありませんが、ひとときの暇つぶしにでもなればと思います。立ち止まる倉敷の町に「よくぞいらっしゃつてくださいました」とお礼を述べながら、倉敷を訪れた思い出として食べられない名物として愛されることを願っています。

「倉子城物語」の中の一部としてここに書かせていただきました。東京で公演した四作、芸文館ホールで公演しました多くの物語、小説として書いたあまたの作品、それらは倉敷の人々の生活を書いたものでした。「林住期」を生きているわたしですが、棄てられなかった思いが残っていたことを今気づいています。
今田 東



 創作秘話 「十七歳の 海の華」2016/8/11

 この物語は実話に近い。
 私が、学校を休校していたったアルバイトで伊勢湾台風がもたらした神戸は塩屋の海岸堤防崩壊を修復するために訪れた時の話である。
 伯父貴が其の方面の仕事をしていたので帳簿でも付けてくれんかと言う事で一カ月を限りのバイトに出向いた。学校には学費を稼ぐと言う事で理解を貰っていた。
 夜行列車で降りたのが塩屋と言う瀬戸内海に面した別荘地であった、ようやく明けて行く塩屋の通りを二十名ほどの土方の人達と町を通り其の現場に到着した。
 私にとっては未知の世界でありこれから何が起こるのかと言う好奇心がふつふつと心に立ち上っていた。
 其の様を青春と言う時代にかぶせて、青年の世界観を書き著わすのが目的であった。多感な歳に色々な人とめぐり合う、それは異次元の世界として映った。其の時の風俗はここに書いている。
 見るもの触れるものが総て未知のものとして認識しなくてはならなかった。
 大人の社会に束の間入り込んで社会を覗いたという事だ。
 其の頃日本はまさに復興の最盛期であり、まだ景気は一握りの人たちの物で全国民の物ではなく享受すると言うところまでは行ってなかった。神戸の線路下の商店街では片方だけの靴が売られていた時期である。後年にそれは浅草の屋台でも見たことがある。まだまだ復興しつつあると言うところでの大きな台風で伊勢湾一帯は壊滅的な被害が出ていた。神戸の海岸もいたるところで堤防が崩れており瀬戸内海の波がそこに打ち寄せえぐっていた。
 其の海の事は今でも鮮明に覚えている。和歌山からだんだんと夜空がしらんで神戸の空を照らす明かりはこの世のものとは思われないほどきれいだった。海はないでいて明りをきらきらと跳ね返し、海を客船が警笛を鳴らしながらわたっていた。漁師たちの小舟が小さく黒点のように散らばり漁をしていた。
 冬の海は寒さを増すごとに波が大きくなり潮騒は限りなく押し寄せていた。
 私は見た、ここにきている土方の人達は農業の閑散期に出稼ぎ出来ていた人たちであった。全国を渡り歩いているとび職も沢山来ていた。大工、賄いの夫婦、総勢五十人が三棟の板を打ち付けた簡単な飯場で過ごしていた。
 酒と女の話がのべつまくなしに続いていた。
 神戸の街に時に出て、あるくことが出来るようになったのはここにきてから半月くらいしてからであった。
 対岸には淡路島がくっきりと姿を見せていた。
 時に心を休めるためには最適な場所で多くの別荘が海岸線に面して建てられていた。山になかにも洋風の別荘が立ちならんでいた。
 ここの話は実話と書いたが半分は創作したもので青春期に出会ったことの奇跡を書き著わしたものである。ここでの思い出は終生消えることがないだろう。それが青春と言う時代の思い出であるならば余計に鮮明にのこるものだ。
 青春、そこに美しい物語を書きたくてこのような物語が作られた。これは貴重な体験を裏打ちしながら思い悩む時期の心の起伏をかいたものなのである。
 たぶんに美化して書いた。
 海が荒れ杭打ちのクレーンが流されそれをつなぎとめようと懸命に戦う姿が生きると言う事なのだと教えられた。また、無くなった仲間を探しまわる人情、舟に一杯花を積んで海にささげる、そんな美しい物語を書いた。それは私が心の中でそうしたいと願ったことだった。
 このひと月学校の勉強より沢山の体験を通じで学んだことは遥かに多かった。
 それがもとでその後の生き方が変わったと言えよう。
 あえて美しく明かるく書いた。それが私の青春だと言う自負のもとに…。

   随筆思う事をつれづれに

 季節の旅へ 2016/6/26

 人はある時に偶然気づくものなのかもしれない。
 それは季節の代わりを自然に感じるように、その変化にとまどうように…。自律神経の病を持っていれば敏感にそれを受け止めなくてはならないことだ。四季の巡りの中で気圧の変化が体の変調をきたす、特に季節の変わり目には顕著である。
 だが、歳をとってくるとその変化に順応していたからだが悲鳴を上げることも多くなった。常に頭痛が慢性化し、眼がしょぼしょぼし、胃腸の変化に戸惑う事になる。そんな中でなぜか頭の働きは研ぎ澄まされたように明晰になっている。これはどう言う事なのかは不明である。
 歳とともにやり残したことをやり遂げようと思う事は常習化している。時間があればその事に拘り解決を急ぐ。明日を約束されていない焦りなのか…。
だが、それを平然と受け止める心はある。
 今まで書きあげようとして書くのを辞めていた作品も数多い。それを一つずつ終わりに向けて書きすすめているが、それが私の終わりとは思いたくはない。新しい作品をと言う思いはあるが、物語を構築するには気力の衰えを感じる。
 若い頃には二時間之舞台の台本は一晩で書けたが、今ではそれは出来ない、早くて一カ月はかかるようになった。それは思考の衰えなのか、体力の低下なのか、考えないようにしている。
 昨日、「砂漠の燈台」完結した。不確かな人間社会の中で生きると言う意味を問うものだ。これももう二十年前に書き始めたもので、その先には書けなかったのだが、今は書くことが出来た。見えてきたという事なのかと思う。
 歳をとって思うのは、若い頃の文章よりセンテンスが長くなっていることだ。谷崎文学を称して言われている、文章の長い人は心臓が強いう事があるがそれが当たっているのかどうかは不明であるが、言い回しが多くなり曖昧になっているのかも知れない。断定を避け疑問として投げかけるものが増えたという事なのか。
 今、政治に対しても、経済に対しても考えを押し付けることが多くなった。私のなかに社会の、人間の定義が定着してそれを押し付けているのかとも思える。不正に対して、正義を唱える、こうでなくてはならないと言い切る態度は一つの思考だが、それが誤っているとは思わなくなった。傲岸で不遜な態度に失速感の戒めを持つが出た言葉は帰らない。
 優しい、理解を求める書き込みが増えている。これは私の後退なのか謙譲なのかと思う。
 特に感じるのは日本人に失われた死生観である。それを持って生きることで反省と責任が生まれ、次なる世代への譲渡がなされことを思う日々でもある。
 今日は梅雨の晴れ間が続いている。少し肌寒いが心いい日和である。
 時に多弁になる攻撃的な言葉を吐く、そんな時に生きている実感を持つ事はやはり心が乾いているという事なのだろうか…。
 
 地球は温度が高くなっているのか…。2016/8/12

 今年は例年になく暑い日が続いている。世界的に高温が続いているかと言えばロスアンゼルスは平均気温を遥かに下回っている。だとすればこれは日本だけの現象だろうか。日本の気象庁が全国に配置している観測所が都市部に集中してはいまいか。これはあるデーターからの引用だが、どうも都市部に集中している帰来がある。
 また、今年になって六月七月には一つも台風が上陸していない、南大平洋において低気圧が発生しても勢力を増さないと言う事がある。これはなぜなのか、珍しい現象である。
 地球温暖化と言う事を言って儲けている人達は大喜びだろうが、水飢饉、取水制限の心配がある。農作物の成長にも影響して不作となりかねない。台風はこないに越したことはないが日本列島に大量の雨を降らせ、季節の産物を生育させ、漁業にも影響を与えるものだ。四季の恵みにも大いに関係する。それにともなってそこに住む日本人の心は干からびていく。
 そんな心配をするのは思いすごしだろうか。
 年寄りと幼子に熱中症が増えている。これは高温が犯人とは言えなくなっている。この十年間の気温の変化を見ても変わっていないのにここ最近の発生率は急激に上昇していることだ。果たして気温だけがもたらすものかどうか研究が待たれる。
 環境省の発表を見れば二十八度を危険警告として出している。が、室温二十八度にクーラーを設定する事を勧めている事は大いに矛盾している。
 高温の原因として二酸化炭素の所為だとして削減を叫ぶ人たちが何と多いことか。その人達はこれで飯を食っている人達なのである。二酸化炭素がなくなればこの地球上から動植物は絶滅をする、その事がはたして分かっていて言うのだろうか。
 話は変わるが日本から夏の風物詩が消えていく。久しく風鈴の音を聞いたことがない。金魚売りの掛け声もついぞ耳に届かなくなっている。浴衣を着る人にも出会わない。下駄の音も団扇であおぐ風にも・・・。空に何時も浮かんでいた入道雲もあまり見なくなった、夕立もない。確かにこれだけを取って見ても世の中、環境は変わってしまっている、これらの変化をただ温暖化で片づけていいものか。
 私のように歳を過ごすと懐かしいものにめぐり合う喜びが欲しいと感じるものだ。
四季の変化が身についている私たちの世代にはすごしにくい世の中になっている。
 鉢巻をして着物をはだけさせ机の上に置かれた原稿用紙に向かい文字を連ねていた頃が本当に懐かしく思い返される。扇風機のかぜを背中に受けていた人はそれでいいが、それもままならなかった人達も沢山いた。
 私は原稿用紙に汗の落ちた跡と手の汗で書いた文字が滲んでいたもの、生の原稿を沢山読んだことか。それは一つの風物詩としてとらえられたものだ。
 高温多湿、それゆえに日本建築はそれに耐えられるように工夫されていた。直射日光を避け、風の通りを知り、快適に暮らせる建て方を知っていた。
 今はどの家にも空虚なクーラーの音が響くだけである。其の中でパソコンに向かい文字を打ち込む姿は何とも言えない虚無感と空気が満たしている。
 今、精神を遊ばせる事は出来ない。ついつい現実しか見えない世界に閉じ込められていて、そこでの思考には限界がある。
 人間には総ての環境の下でも生きていけると言う順応性がある。多少の満たされないところから何か新しいものが見えることもある。
 ここで、四季の季節、を考えながら人間はこれからこの機械文明の中をどのように生きることが最善なのかを再考すべきなのではなかろうか。
 あの、風鈴の音で天候が予知された生き方を人間は取り戻さなくてはならないように思える。

創作秘話 「見上げてごらん夜の星を」 2016/8/14

 人は信じるものがあることが至上の喜びなのだろう。ここに登場する人達は都会の生活に疲れた人たちがビルの億畳で生活をし何かの期待を抱えて光と投げる星に近いようにと集まった人達である。
 人が生きると言う事は何かの光を求めて群れなすものにのだ。それは街灯の明かりに群れる蛾の様に似ている。そんな人達にも夢と希望は等しく与えられていたが、それは明りに身を擦りつけて死んでいく蛾の生態と酷使していた。つまり、絶望のなかに生きていると自然にそのなかに飛び込むものなのだ。
 明りは生きる道しるべ、それを求めて集まったのが思うようにいかないのが人の世の習いかも知れない。だが、それでねなおなにかを求めて生きていくのが人間の本能なのかも知れない。それは生きてきた道のりに絶望し、定めの周松を末人達の鎮魂の終末なのかも知れない。
 過去のことを懺悔するように言葉を吐き落とす人達の思いは、定めとか人生をのろうではなく日々のなかに小さな灯を灯すこと、星の明かりに一抹の望みをかけてじっと見つめる眼差しに星の光が滲んでいる。
 星は辛い時や苦しい時に眺めるものではなく幸せな時に眺めるものと私は書いた。祈りは感謝のみのでなくてはならないと言うのが私の思いであったからだ。
 現今のなかで生活を強いる人達の殆どが生きていることに、人との出会い、野辺にさく一輪の花に感謝、ありがとうと言う言葉を落とす事はなくなっている。その言葉はこころを浄化させ再生するものなのだが忘れている。また、美しいものに対してこころを震わせることもないひからびた生き方をしている。
 ここの登場する人達も持っていたはずであるが、生活の中に忘れ生きたものだ。
 星に言葉を投げる、うれしいときにありがとうと言う事こそ前を向いて生きているという事なのだ。
 いくら星に近寄ってもその思いのない人達には明りが届かない。
 
むかし、むかし遠い国に、みなしごのラルという少年が住んでいました。
ラルのお父さんとお母さんは隣の国との戦争で亡くなったのでした。
ラルは羊飼いのお爺さんと暮らしていました。
ラルはお父さん、お母さんがいなくても淋しいと思ったことがありませんでした。
それは、優しいお爺さんがいたからでした。  
 毎日毎日、ラルはお爺さんと羊を追って草の茂る野原に出掛けたのです。
ある日、ラルが野原に出ると、そこには花がいっぱい咲いていました。

羊達は喜んでその中を走り回り、食べはじめました。
「花が可哀相だ」とラルは思いました。
そのことをお爺さんに言いました。
「ラルよ、花が美しく咲くのは、蜂や蝶々や鳥に食べられるためなんだよ。そして、羊に食べられふみにじられるために咲いているんだよ」
とお爺さんは言いました。
「美しい花はほんのひとときでほろびるものなんだよ。だけど、花はそれで終わることはないんだよ。毎年毎年この季節になれば、また、美しく花を咲かせるんだから、そのことは神様と約束をしているんだから・・・」
そう、お爺さんに言われて、ラルはそうなんだ毎年毎年花を咲かせるのはそのような神様との約束があるからなのかと思いました。

ラルはお爺さんの話を思い出しながら、堅いベッドに横になり一日の疲れをとるのでした。
「トントン、トントン」と戸をたたく音でラルは目をさましました。
ラルは起き上がり戸をあけると、ひとりの少女が立っていました。
「どなたですか、道を間違われたのですか」
とラルはその少女に声をかけました。
「いいえ、星を見にきたのです。この家は丘の上にあるでしょう、だから、星に手が届くのでないかと思って」少女はやわらかな声で言いました。
「星を・・・」
「はい・・・一緒にどうですか」
「ぼくとですか・・・。こんなに夜遅くでは恐くありませんか」
「いいえ、星があんなに輝いているのですもの。・・・あなたの、お父さまお母さまもあの星の一つ一つなのですよ」
「ええ、あの星がお父さんお母さんなのですか」
「ええ、そうよ」

「お爺さんは、星は花の精だと言っていましたよ」
「いいえ、あの星は、戦争でなくなった人の、平和へのともしびなのですわ」
「平和への燈・・・」
「そう、辛いとき、悲しいとき、淋しいとき、苦しいとき、じっと見守ってくれているのですわ」
「それで、君はあの星をどうしようと・・・」
「ええ、もっと高いところから星を見つめて祈るのですわ、淋しい事もあるけれど、このように元気でいますとみてもらうのですわ」
「君のお父さんお母さんは・・・」
「この前の戦争で・・・」
「ぼくの、お父さんやお母さんも・・・」
「さあ、ラルもっと上に登って星をさがしましょう」
ラルはベッドより起き上がろうとしました。
その時、
「ラル、行ってはならん」
お爺さんの大きな声がしました。

「星は、辛いとき、悲しいとき、淋しいとき、苦しいとき、以外に見るものではないんだよ」
とお爺さんは続けて言いました。
「幸せなときには見てはいけないの」
ラルはお爺さんに問いました。
「そうじゃ」
「だったら、この少女は・・・」
と言って、戸口を見ると少女はいなくなっていました。                               
「ラル、今日、花が可愛そうじゃと言ったろう、だから、ラルの優しさに花の精が人間となって、ラルに恩返しにきたのじゃろう」
お爺さんの声は風の音のように消えました。

次の日、戸口の外にはたくさんの花びらが落ちていました。
ラルは星を眺めることもなくすくすくと育ちました だけど、少しだけ星を見上げることがありました。

私はその思いを劇中歌として書き加えた…。

 創作秘話 「砂漠の燈台」2016/8/14

 この作品は、私が読みたいから書いたものだ。この歳になって若かったころに読んだ物を引っ張り出してと言うのも億劫なので書きながら読むと言う事で書き始めた。五年前に書斎をリフォームして五千冊以上は破棄した。あとには、図書館でもないというものを遺したが六畳の間に平積みをしていて、昔の書斎のようになにが何処の棚と分かっていた時と違って何処にあるのかも分からなくなったからと言う事もある。
 今は背表を見てこの本を読んだのはあの頃だったなと記憶を呼び醒ましてほくそ笑んでいる。私は読んだ本はすぐに忘れて次々と乱読していたから覚えていないと思っていた、が、背表を見ていると何処にこのような事が書いてあったと思い返している、と言う事は記憶のなかに蓄積しているということになる。そんなに精読をしていないのにと、作者に
申し訳ないと思うが、今思い出されると言う事はある意味で作者が作品を通して私の心をつかみ、私はその思いを心に畳んでいたという事なのだ。
 忘れていること、そのなかから私の書くものに影響を、人間を教えていてくれたことに感謝しなくてはならない。
 多い時には二・三万冊はあったから、積読ものもかなりあったが、そのなかから知識となり知恵に切り替えられたものも沢山あったろう。それが私の頭の中で私なりの表現に変えながら書いたと言えよう。
 福沢諭吉氏が、国家、民族、と言う言葉を発明し、作り、今では世界中で使われるようになっていることもありがたいもので、総ての言葉を先人が発見し、名前を付け、たものである。が、それらを使い書いて想像物だからと言って著作権を欲しがる作家の多くは何と言ういやしい考えしか持ち合わせていないのだろうか。
 作家が金に執着をし欲を持つと碌な事はない、それが今の日本に文学が育たないと言う事に通じている。まず先人が残した言葉を使って今を書き後の世まで遺すと言う事は無いらしい。今、金が欲しい乞食根性なのである。
 私はそんな本を読みたいとは思わないから、自分のために書いている。
 爾来、書きものをするという事は自分の備忘禄として、また、子孫のために書いたものだ。作家は金に目がくらんだ亡者、著作権なんか溝に捨てることをお勧めしたい。
 この「砂漠の燈台」は自然と人間の一体化を基軸にして人間のこころに巣くう曖昧な心の中から光を見つけると言う物語にした。
 敗れ成就しなかった恋、青春の思い出が何時までも心に燃えていて、それを心の糧にして人生に挑戦すると言う物語を書いた。そんな小説を読みいと思ったからだ。歳をとると若い人たちの物語を、はかない時の巡りのなかに生きる人達の物語を読んでみたいと言う事も書く動機であった。
 今を生きている人達に文句は一言もない。その人たちになにが正しいかを言う資格は何処の誰でもない。ます、自分はこのように生きると言う事を持って生きることだと思うからだ。それを世間に対してこれが生きることの大切さだ、と言うのは宗教家、哲学者である物書きではない。物書きはその人たちよりもっと先に進んでいなくてはならないと言うのが持論だ。これは、歴史家、郷土史家の人達と大いに違う点だ。物書きはロマンを持たなくては書けない、常識ではなく知恵がなくては書けない、足元を見て全体を想像する力を持っていないと書けない、時間を感じて其の時代に飛んでいける感性がなくては書けない、人の死を見てその人の全人格、過去と現在と未来を感じなくては書けない、雲のあり方を見て世界の趨勢を感じ取る機知がなくては書けない、顔や名前を物語の中で人格を持ったひとりの人間として書かなくてはならない、それがなくては一行も書けないものなのだ、が、今の作家はそれがなくては書くことが出来るらしい。見上げたものである。
 私は、明治大正時代の偉人の物書き宮武外骨が大好きである。見えていたから何ものにも動じず書きたい事を書き放り出したのだ。この反骨精神こそが人間の証しである。
 また、坂口安吾、この人からは狂気とあくなき執着を見て取れることになぜか親しみを感じる、堕落、それは一番に人間らしいなどとほざくあたりは喝采ものだ。この人の物が今は読まれているのか、これほど心やさしい作家はいないと言える。何をしてもそれが人間と言うものだからいいのだ、この言い訳は見事としか言えない。
 宮武外骨と坂口安吾の共通しているものは人間の優しさであり、それゆえに持たなくてはならないものは狂喜なのだと教えてくれる。
 私は二人ほど優しくはない、だからきれいなものを書いた、書きたいと言う自己満足をしているのだ。
 砂漠の中で道に迷う人達のために砂漠の中で明りを灯そうと言う一人の女性の姿を書き著わした。それは、人の心に巣くう不遜と傲慢なことなのかも知れないと思いながら書いた…。
 明日、私はサハラ砂漠にいるかも知れない…。と言う言葉を最後として閉じた…。

創作秘話 「うえを向いて歩こう」 2016/8/16

 永六輔と坂本九の作と歌唱だが、この歌にたいしての感慨は殆どない。世界的にヒットしたと言うくらいだ。
 なぜ、この題にしたのかは、私が好きな言葉だからだ。
 また、なぜにこの作品を書いた歌は、現代の俯き加減の人達を多く見るから、と、どうか前向きに生きてほしいという思いがあった。
 それとデモの鎮静化に盾となった機動隊の人たちがマスコミによって何も報道されなかったという事も、その不思議さもあった。バブルの時期やくざの地上げ屋に脅かされ騙されて退いた人達もここに登場させている。最後はこの人たちの復讐劇になった。
 現代の風情をかきながら社会の柵のなかで生きる、その事を少しで見、真実として書ければと言うものだった。
 狂言回しに一人の女を登場させている。時代の証言者として、時代の背景として、国民の総意として語らせている。
 私もその時代をそれらの闘争の渦中で生きてきた一人だ。社会は両極端に分かれ意見は対立し、離別を繰り返していた時期、なにが本当の真実か分からない、分かろうとせずに何かに酔っていた時代だった。ただ現在の不安に対しての叫びだけが空しく木霊していたのだ。戦後の悲惨な状況からようやく一人で立った幼子の様な存在が国民の姿であった。
 デモの先頭に立っていたのは、全学連でもなく、演劇人たちであった。其の頃の演劇界は思想的には共産主義の人達が占めていた。俗に言う新保的な人達である。要するにアメリカとの安保は絶対受け入れられないという、ただそれだけで、それならどうするのか、日本を何処へ導くのかの議論はなく、代替えの案も持ち合わせていなかった。ただ反対、と叫んでいたという事だ。
 文化人、労働者、大学生、それらは、新宿駅構内で線路の石をポケットに詰めて参加していた。ヘルメットをかぶり、鉄パイプを携帯するものもいた。それらの人達は機動隊と小競り合い殴られヘルメットをわられて額から流血していた。が、機動隊のなかにも鉄パイプで殴られ再起不能の重傷を多く出していた。、が、その機動隊の事は一文字も報道されなかった。これは書く時に思いあの時代は一体何だったのかと言う疑問がわいて心が震えた。
 あの頃から今の日本、報道のでたらめが始まったとしか思えないからだった。
 デモ隊であろうが応戦する機動隊員であろうが命は等しく平等であるはずだと言うのが私の思いだったからだ。主義主張を超えて其の命を見つめた。
 安保、原潜寄港、成田闘争、公害問題、ウーマンリブ、赤軍派、原発、授業料値上げの学生闘争、等は、日本国の、国民の脱皮であったのだろうか。其の根底にはアメリカの日本全滅作戦、日本人の精神の破壊、国民一億地方政策、公職追放、旧憲法の切り捨て、押し付けの新憲法、教育勅語の破棄、財閥解体、農地改革、等など。
思想の自由と言いながら低級な娯楽に埋没させる、プロ野球、プロレス、映画、テレビ、ジャズ、ロカビリー、新聞社などにGHQは金をばらまき国民を其の享楽へ導いていく、
日本教職員組合を支援し日本は悪い事をしたと教え押さえつける。朝鮮人と共産党員に対しても裏から手を回して応援しそれを実行させる、また、新興宗教に対しても莫大な金を投じて宗教界を分裂させる、ようするに日本人精神の支えを断絶させる作戦をしていたのだ。
 アメリカは、日本との戦争で国民を全員殺すと言う戦いをしていたと言えよう。事実ルーズベルトは皆殺し作戦と言った。
 其の証拠に敗戦して戦勝国は敗戦国を裁いてはならないと言う事を無視して、当時の軍部と政治家を東京リンチとして裁判に架け絞首刑にしている。
 そんな混乱のなかでアメリカの作戦にまんまと乗せられたのが反対と叫んだ人たちであったのだ。何も分からなく扇動にまんまと乗せられたのだ。
 そんな時代を過ごしてそれを自由と勘違いした人たちの群れがあった。
 私はその渦中にあってつぶさに見てきた。また、それらの人達が書いたものを読みあさっていた。
 この時代を克明に解き明かしたのが「されどわれらが日々」芥川賞になった柴田翔である。が、デモたちの中を書いたもので其の鎮火に働いた機動隊の人の事は書いていない。
 それでは平等ではない、その思いが30年後になってようやく気付きこの作品を書く動機になったと言える。
 現代の時間のなかに生活して蠢く人達の事を書きながら背景としてはここに書いた人のなかに思いを密かにしみ込ませたものだった…のだが…。


岡山県の演劇の実態は、文学の不毛がもたらすもの
              2016/8/21

 20日、私の原作が脚色されて朗読ドラマとして公演された。私は見なかった。と言っても何処の劇団の公演も観客になったことがない。また、私の作・演出の舞台を客席で見たこともない。若い頃には岡山の劇団の作品を数多く見ているが、この倉敷に五十年近く住んでいる間は岡山の物は全然見ていない。風の便りで噂は届いていてそれ以外は知らない。
私は、むしろ東京、静岡、などの舞台を沢山見てきている。と言うのも、「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」の設立メンバーとして日本を代表する劇作家や演出家の仲間が多くいたという事で往復の旅費持ちで招かれたと言うのが実情なのだ。だからと言って岡山の演劇を疎かにしたというわけではなく、岡山の演劇人に対しては練習場の確保など裏でうごめいて県を動かせていたという事がある。其の実態は今の劇団の人達は知る由もなかろう。私のところにはチラシも送られてこない状態が続いているが、それは妥当なことだと思っている。何も卑下しているのではない。
 だが、沢山の劇団が跋扈してはいるが、その実情はどうなのか。
 国民文化祭岡山の演劇公演の役員をしている時に其の代表の人達と会議が何度も持たれたが、この人たちは何を目的に演劇をするのかと言う疑問は付きまとった。古いといわれる事を承知で言うならば公演をするという事を何か勘違いをしているようにしか思われなかった。
 役者と乞食と代議士は3日やったら辞められないと言う事がそっくりとあてはまる人達であった。むしろ、そこ言葉に反することが演劇を作ることには必要不可欠なのだと言う事の認知が全くなかった。公演することで観客に訴え見てもらう、その行為は、役を演じた人たちがそれをやり終えた時にその前より一歩でも人間としての深み、考える力、見識を上げることでなくては、次の公演は出来ないと言う恐怖感がまるでないいう事なのだ。ただ楽しいからやる、それは人間の根源的な本能なのだが、その行為には総ての点でそれを行った人たちがその経験で進化してなくてはならないと言う概念がないことに私は不安を持つ。
 都会の劇団の公演もさして変わらない、岡山も同じである事はそれでいいのかも知れない。都会をまねよと言っているわけではない。
 都会の劇団がどのような役者の教育をし練習をしているかは、時にテレビや映画に出る役者を見れば歴然として分かる。人間としての深みがない、常識がない、歴史を知らない、それよりも何よりも知恵が欠落していることにみなさんは気づかれないだろうか。それを証明、知るのは数年後見たら少しも進歩をしていないことにつきる。
 つまり役者が人間の進歩と言う人間としての苦行を疎かにしているという事なのだ。これは都会と岡山と言う地域の隔たりではなく日本全体の現象なのである。
 演劇と言うのは人間を演じること、それには人間を熟知しなくては出来ない稼業である。演出家が手とり足とり演技指導する、これが役者をやせ細らせている原因なのだ。
 演出は役者に考えるチャンスをより多く与えることが責務なのだ。脚本の分析、演出ノートは演出が迷った時に使う道標の様なもので役者に対してのものではない。
 つまり、演出家は文学に精通していなくては戯曲を解き明かすこともできない、むしろ文学者の要素がいるのだ。それに気が付いている演出はほとんどいない。まして役者はその事を知らないのは当たり前なのである。
 日本の文学、画家、音楽家、照明が、その総てを手中にしていなくては良い演劇など出来る筈がないのである。
 日本の演劇も文学の不毛がその発展を妨げているという事の現実と対峙しているのだ。
 昨日公演したものでも、演出は開幕で客の心をつかみ舞台へ引っ張り上げるためのからくりを作らなくてはならない。
 私が演出をするならば、客殿が明りを落として開幕のベルが鳴って静かになったところで子ども達の歓声を会場一杯に流す、静かに幕が上がり舞台は真っ暗差すスポットが一条降りて照らされるのはこの舞台の主人公の、祈るような、遠い昔を見つめているようにまなざしで何かを探すようにじっと見つめている。
 子供たちの歓声と舞台の一条の明かりと遠い過去を見つめる姿で観客の心をつかむ。まず舞台では開幕、終幕を如何にまとめるかが演出の大きな役割であり、その作品を値打ちあるものに変えるのだ。また、終幕前には最後の台詞の跡、舞台が緩やかに幕を下ろす時に明りを総て閉じ、真っ暗やみの中に子供たちの歓声を大きく響かせる。
 客はそこで舞台の終わりを感じ、余韻に浸るであろう。
 これはたとえばの事であり演出には様々な個人的な感性で作られるものだ。これは私ならと言う物として書いた…。


 芸術文学を志す人たちの民度の低下 2016/8/21
 
 ここに書いて批判をするつもりはない。人間とはそういうものだと坂口安吾なら言うだろう。
 人間はかくも劣化するものなのか、その人たちが物を書き、演劇を作り公演する、これでは読む人見る人もたまったものではない。
 人間の本質を知らない、節度もない、常識もさらにない、人に対しての思いもない、つまり、心配りがないという事だ。
まず、そんな人達が書き作るものに人を感動させ、心を震わせ感じ滲み込ませるものが作れるはずがない。
 まさに人間の本来持ってなくてはならない感情、人に対する思いがないという事に気がついていないと言う事だ。
 物を書くと言うのは読んですぐに身につくものを文学とは言わない。生きていくなかで時にして心ににじみ出てきて心を癒したり、生き方を示唆してくれるものが名著であろう。そんな本についぞ最近は御目にかかっていない。私は若い頃読んだ多くの本がこの歳になってようやく理解できるようになっている。今の本は読まない、それは心の中に今まで読んだ本から流れ出す言葉の数々に感銘を受けているからである。
 今の物書きはそんな本は殆ど読んでいないということだろう。三十年、四十年の時を超えて今私は振り返って其の意味を知り生きる支えを頂いている 当時の物書きはその事に重点を置いて書いていたと思う。そこにはそこはかと文低にひそませた書き手の理性と謙虚さ、人間としての思いを感じるものだ。
 安吾にしても、彼の物書きとしての狂気と執念、そこには限りなく人間をいとおしむ心がなくては断言できない言葉の数々を書き連ねている。それは彼の著作の行間にあるのだが、今の読者、今は彼を読む人は絶無だと思うが、一度手にして見てほしい。
 そこには人間の持つ本能を優しい言葉で書き現わし読む者を納得させるだろう。
 民度も高く、増して劣化などしていない、大きな人間に対しての愛が潜んでいるはずである。
 それは生きている時に人の行為に対しての対応の速さに現われるものだ。それが人間の最低限度の心配りである事を私は教えられた。
 物書きはそれを自らに課せ歩まなくてはならない。
 また、演劇をする人達は、自分に酔ってはならない。狂喜する時にはなにもかも忘れていい、が、人の善意に対しては細かく心を砕かなくてはならない。それがない人達が演劇を作っている現在を思うと暗澹たる思いがする。
 劇を作るものは観客より先に酔ってはならない、傲岸であってもいけない、不遜は忌避しなくてはならない、謙虚に客席の拍手を頂き感謝の頭下をしなくてはならない、そして、この演劇が出来た総ての人達に合掌をしなくてはならない。そこにこの演劇をした後に人間として一段の階段を上がっている事を自覚しないとならない。それは、無理なことなのです。今の演劇人には自分の達成感しかない、それでは何のために演劇をしたのかが分からない。演劇は演じるときに演じる人の全人格と全人生を解きほぐし自分のものにしないといけない事を疎かにしている証拠である。それでは階段は登れていない。
 物書きには狂気と執念がいると書いたが、演劇人には人間の本能を熟知していなくてはならない、観客より民度は高く、精神的にも劣化していてはならない。
 若い演劇人には、経験と実績、歳を取った人には実績と結果がなくてはならない。それはあくまで人間としての物で、それがこれからの成長の規範にするべき目標なのである。
 物書き、演劇人の方に、
 まず人間は動物である事、その違いは人と人との絆と心のやりとりによるふれあい、自分の事より人を優先することを、人の言葉を真摯に聞く姿勢、なによりも人を尊重する態度などがなくては成長はおぼつかない事を感知しなくてはならない。
 今の文学の、演劇の不毛は社会のせいではなく、当事者、物書きと演劇人たちの民度の低さ、劣化によるものであることを認識しなくてはならない…。
 それには人を惹き付ける、人間性を作り、人が集まる空間の中で相手の言葉を真摯に聞く自我を後回しにした精神の構築なくしては広く人々には受け入れられないだろう…。

文学は民度を高めるために必要なのか 2016/8/23

 政治と文学はお互いに牽制し合うなかが好ましいと言う。
 文学は人間の幸せについての桃源郷を書き、政治は幸せを作るための経済を重点に置くと言えよう。互いに理論の攻撃を行いそこに新しい人間の社会の構築をする、命の問題にしても、財産にしても、人間はその思いは平等でなくてはならないと言う事だ。
「反対」と言う声を発するとその理論的にそのなぜ反対なのかの理論的根拠を提示し、その主張がないと反対の意味がなくなる。結果でものを言うのではなく将来に向けて項あるべきだと言う事なのだ。
 今の文学にそれがあるかと問われればないとしか言えない。つまり過去は成果として見えているが、未来に対してのどのような社会になるかと言う理念がないという事だ。それはあまりにも無責任で不遜の事だ。
 要するに勉強をしていない、する気がないと言うべきなのだろう。
 過去と現在しか見えない人にもの書けない。書き手はロマンで生きていなくてはならなすからだ。ヒステリックに書きなぐる、それは物書きではなく激文にしかならない。
 つまり生活に密着していないと未来の姿が見えない、その現在をどのように暮らしているかが、次の社会の座標を教えてくれることになる。言って見れば怠慢の極みなのである。それでは政治の支えになっていることになる。
 私が公害闘争をしたのも、人間社会の崩壊をおそれたから
であり、原発を反対したのも、それを作ることで核爆弾が容易に作れる状況を感じて反対をしたのだ。今の理屈だと再生エネルギーに代替えさせるという欺瞞を知っていたわけではないが、それはエネルギーの消費を膨大にし地球環境を汚染すると言う結果をもたらすであろうというかすかな疑惑がなかったわけではない。
 当時は行動する作家と言う言葉がはやっていた。人間の尊厳を守るために行動していた。そこから生まれるものは人の心にその思いは届いていた。
 開高健、小田実はべ平連を作りベトナムの戦地を走り回っていた。女性の自立と差別を掲げて運動していたのは、高名な女性作家ではなく市井の人達の集団だった。市民運動家は
全国の集会に参加してこの国の未来を語っていた。公害講座の東大の宇井純は先頭に立って本を書き講演を各地域で行っていた。
 この人たちは政治に何の関係もなく、自分の判断で政治に対して牽制球を投げていたのだ。緊張と活気のある社会だった。目的があった、皆幸せになるためにはやらなくてはらないという事だった。
 今、政府に反対という声をあげてその代案も出せない作家や文化人はその運動には全く参加してはいなかった。金儲けにいそしんで贅沢な生活をしていた人たちだ。
 市民運動家の人達は電話代がなくなるとそのなかの女性が体を売って資金調達をし維持していた。私はその人たちが持ってくる本を買うことくらいしかできなかった。が、その行為には涙がこぼれることも多かった。なぜここまでして、と言う憐憫の情はあった。
 自分の事より人の事にここまでやるのかと言う思いもあった。確かにその人達は自分の思いに忠実に生きようとし、自分の事は傍に置いていた。
 それはそのころ生きていた人には他者を、社会を思う心が充満していたのだ。
 もの書く、文化人は何もしなかった。
 政治と文学の牽制、それは文学ではなく人間の生活と未来を見据えた一握りの心ある人たちのものだった。
 言いたい、物書き、文化人と称している人達、何も見ようとせず、考えようとしなくて、金儲けのためにテレビでいい加減な軽い言葉を吐いて恥ずかしくないのか。人のために体を売ってまで公害を阻止しようとしていた彼女に対して恥ずかしくないのかと聞きたい。
 今の日本は完全に欺瞞だらけの政党に支配されその駒になり下がった、物書き、文化人の偽物が大手を振って歩いている。
 政治と文学の牽制などが起こるはずはない。物欲に心を売った人達がマスコミを蹂躙している限りこの国は最早終末と言う言葉しかない。
 悲しいかな、それが現実、政治と文学の牽制は紙に書いた餅になってしまっている…。

文学と言う謎の言葉 2016/8/24

 私はこの言葉を心において生きてきた。
「この娑婆には、悲しい事、辛い事が沢山ある。だが、忘れるこった、忘れて日が暮れりゃあ、明日になる…」
 長谷川伸の「関の弥太ッペ」のなかの名セリフだ。
 この言葉にどれほどいやされたことだろう。
 私はこのような言葉が書きたくて、今まで沢山の作品を書いてきたのかもしれない。心に残る、いや遺すその言葉を…。
 今まで生きてきてついぞその言葉以上に感銘を受け前向きに生きる上での励ましを受けたことがない。
 私は一貫して物のあわれを書いてきたが、そこにはこの台詞が常に記憶の中から滲み出てきて書かせてくれたものだった。
 時に、「関の弥太ッペ」を見ることがある。中村錦之助の名演技がさらに涙を誘うものになっている。
 私も若い頃その世界にいたことがあるが、股旅ものをさせたら錦之助にかなう人はいなかった。今でもそれを超えた人はいない。なかでもこの作品は秀逸なものだ。台詞が生きいいる、これはなかなか出来るものではない。感情を如何に表に出さなくて人の心をとらえるか、錦之助だから出来たことだろう。
 まず、それを言って、今の文学が意味のない事をつらつら書きすぎていることにいらだちと不満を感じる。
 物を書くと言う事はその作品の中に伝えたいと言う気持ちがあってのことだろうが、それがなぜ伝わらなく書いているのか。書き手の未熟なのか、人間の心を知らない故なのか、また、そんな生活をしてこなかったという事なのか、書くことの必然がないという事に尽きる。
「この娑婆には、悲しい事、辛い事が沢山ある。だが、忘れるこった、忘れて日が暮れりゃあ、明日になる…」
 長谷川伸はこの台詞を書くために「関の弥太ッペ」と言うやくざの世界の醜さや、義理と人情、対立を書いて物語を作ったと言えよう。
 この二行の台詞のために作者はそれを貫通行動にして色々な反貫通行動を絡ませて書いた物だ。
 私は、長谷川伸、山本周五郎の作品を好んで読んだ時期がある。西洋の古典物や、日本の純文学にもよくなじんだが、この台詞以上に感動をしたものはない。
 日本人のきっても切れない人情が横溢している。また、池波正太郎の作品には江戸時代の人情風俗食生活が巧みに織り込まれていて、日本人の精神と感性、社会の成り立ちがよりよく伺い理解させてくれる。
 長谷川伸には、「瞼の母」「一本が刀土俵入り」などの作品の中に名セリフが溢れている。
 その言葉を読む人の心を震わせ心の糧にすべきものが多い。
 山本周五郎の作品で一番好きなのは「日本婦道記」のなかの「墨丸」である。これは人が人を愛すると言う根源の在り方を書き現わしている。愛すると言う事はその相手の人の幸せを願う事なのだと作者は言ってはばからない。この物語はかなしいほどの美しさを漂わせている。
 また、周五郎の書いたものが映画にテレビになって公開されたが、この人の作品ほど公開された作家の作品は見ない。日本人に馴染んだものだからだろう。武家もの、町人もの、歴史ものにも日本人の心情が満ち溢れている物が多い。稀有の作家と言えよう。
 こうして見てくると純文学の小難しい表現になにを言おうとしているのか分からなくなる。
 大衆、中間、純文学と分け隔たりをしているが、読む人に与えるインパクトは一番低いのが純文学であろう。
 かつて持っていた日本人の精神と心得を思い出させてくれけるものが、本当の文学であろう、人間の側面、新しさをいくら書いても、その前に人間の本質を知らなければ何もならない事を言いえているのだ。
 先輩たちが書き遺してくれた物を修学し、その上に新しい物を発見して書き現わす、今の人間、これからの人間の姿勢を書き現わすとしても、
「この娑婆には、悲しい事、辛い事が沢山ある。だが、忘れるこった、忘れて日が暮れりゃあ、明日になる…」
 この台詞以上の物がはたして書ける人が出てくるだろうか…。

 文学作品の効用は現実的なのか2016/8/25

 最近の文学作品を全く読んでないので書くことはできないが、昔のことについては書ける。
 人間の深層心理を新しく見つけて書きこまれるもの、未来の社会を空想的に現わすもの、過去の事象からその時代に何があったのかを掘り起こす事の新しさ、等が書かれていて読み手の心に届いたものが多かった。し、気づかせてくるものがあった事は書かなくてはならないだろう。
 たとえば安部公房は近未来に寒冷化が来ることで人間の存続にはどのような対処が行われるのかを書きこんでいた。
「水中都市」「第四間氷期」などがそれを例にとって書かれていた。
 安部公房が日本で最初のSF物を書いた作家であった。
また、星新一、小松左京らが独自の視点でそれにつづいた。
 小松左京の「日本沈没」はベストセラーになって広く日本はおろか世界にも読者が沢山いた。
 地震と噴火による日本列島の沈没、その克明にデーターを酷使し人間の恐怖と逞しい勇気ある行動が書きこまれていて、人間の在り方をも提示しているものになっていた。ここにも冷徹に書きこんでいるが作者の人間に対する愛おしさがあふれていた。わたり老人、日本に古くから継承された家族、参十、三百、三千の表の社会には出てこなくて日本を守る人達の活躍も作者は目を離さず捉えていた。日本民族の血を絶やさないために世界を回り受け入れを請願する、これは日本国が形成されてなお続いてきたその家族の務めだとして作者ははばからない書き方だった。
 安部公房は「砂の女」「棒になった男」「燃え尽きた地図」によって人間の隠された根源的な本能を語りつつそれを現実とすることを読者に真正面から問い投げかけている。
 公房は日本で最初のノーベル文学賞にノミネートされたのは「第四間氷期」なのである。これは世界に翻訳されて絶賛されたものだ。この人の私生活までここに書く必要を感じていない。また、それらを元にして戯曲を書きあまたの劇団が公演している。私個人としては「奴隷狩り」に若い頃触発されたものだ。
 時代時代において、作家は読者に触発と言う劇薬を飲ませることが文学の深遠なところであった。それも務めて控えめと言う表現が当てはまる。ここまで書くがあとは読者に委ねると言う作家の勇気が随所にも見られたものだった。
 それはどの作家も心得ていて結末までは絶対に書かなかった。それが今の作家との大きな違いであるように思える。
 それは今の劇作家にも、放送作家にも、演歌の作詞家にも
言える、書きすぎていると…。
 それは書き手の自己満にしか過ぎない。読む者、見るもの、聞く者にあとは判断させることが必要なことなのだが、ついつい書いてしまっている。
 その事は詩を書く人達にも言える。書きすぎている。言葉を、もっと適材適所に有効に書くことで削ることが出来るのに語彙が豊富でないので短くは書けない。つまり、古典を読んでいない人達の罪であり勉強不足なのだ。
 日本の言葉が乱れている。それを糺すべきは物書きなのだが、いまの日常使われる言葉で書いてはその価値はない。
 一つの表現とする言葉をもっと拘って感性で選び書き現わしてほしいと思う。
 私がなぜシェークスピアを読まなくてアントン・チェホフに心酔したのかは、あの長い比喩暗喩に親しみを感じず、チェホフの物のあわれに魅かれたからなのだ。
 また、太宰治も読んだが、坂口安吾に拘泥したかは総ての所業をそれは人間だからという一貫した私感から発せられる本能を正確に捉えていたと読んだからである。彼は狂気と執着のなかで人間の愚かしさをつき続けていた。「堕落論」「日本文化私感」などに書かれている事は「満開の桜の木の下で」の人間の潜在的な狂気、本能の前ではかなうものではないと思っている。それに「風博士」の不思議な魅力は私を惹きつけて離さなかった。
 太宰については「津軽」に尽きる。「人間失格」「斜陽」などを彼の代表作とするならばかわいそうであろう。
 あの生きることに憶病で大名の血筋でありながら死生観すら持ち合わせていなかったとしたら、最後はなるべくしてなった人生としか言えない。
 没落してゆく家族の姿、それはチェホフも「櫻の園」「三人姉妹」を書いているがその差は歴然としていてこじんまりとし過ぎている。太宰には死への恐怖、生きる恐怖が混在していて自らがそれから逃れようとして自死したのだ。
 その点誰が何と言おうが狂気に生きた安吾の魂は彼の総てであったと思える。
 今、新しい物を見つけるには安吾のように狂気執着がなくてはならないと思えるのだが…。
 それに、安部公房、小松左京の大胆な次世代への問題提起が欲しいものである…。

 文学の在り方の欺瞞は 2016/8/26

今の世の中、欺瞞と錯覚のなかで生かされていると言っても過言ではない。それらの環境の中にいると安堵感がある、平安がある、自分の世界の中で生きられるという便利さがあるようだ。が、真実を知らないと言う事は精神を成長させない。それでも一向に構わないと言う人達が五万といる。それが幸せであり平和なのかも知れない、その人たちにとっては。そのような状況の中では宗教も、哲学も、文学も必要はない。
そんな環境の中で物書きはいかに生きていくのか、それらの考えが正しいと書いて安心させることしかない。つまり、徹底的に娯楽を提供するしかないと言える。小難しい物を書いても買ってもらえず、読んでくれない。物書きは顎が上がる。ただ、作家と言うプライドで生きていくしかないのだ。
全国で数百の賞があるが、その賞は職業作家としての出発点にはならない。プライドを維持するに不可欠な勲章にしかならない。が、金ではなくブリキであることに気がつかない。それが物を書く人間の思い上がりである。前にも書いたが「新日本文学賞」を辞退した大江壮は土を耕すことに生きがいを見出し、「女流文学賞佳作」を振って日本舞踊の流派を作った梅内ケイ子女史の華麗なる転身を見てきた。
この二人を見てきて、兼業作家と言う言葉を思い出した。彼らは兼業でなく物書きを捨てて想いの道に進んだのだ。プライドなんかくそ喰らえと言う前向きな姿勢には驚嘆した。二人は書くのが好きだがそれ以上に好きなものがあったという事なのだ。書き事より好きなものがない人達はそれにすがるしかない、欺瞞と錯覚のなかで自由な精神を殺して続けるしかないのだ。が、昔の作家たちが銀座のクラブで豪遊していた事は自分に取っては夢のまた夢であることを自覚しなくてはならない。
文学の欺瞞性、それは読者を詐欺することなのだ。
その典型的なのが、森村誠一の「悪魔の飽食」でこれは中国の政府によって絶賛され、心ない無知な日本読者がそれに感化された。この作品は石井細菌部隊の人体実験を書いてはいるが、その部隊が研究していたのは伝染病と性病と言うものであった事はのちに明らかにされたが、作者の謝罪は何もない。
また、背乗りの朝鮮人の吉田清治よってありもしない出鱈目な慰安婦ものが北朝鮮、韓国に媚を売り朝日新聞が大材的に報道し後に誤りを訂正している。千田夏光もこの手の物を書き世間を侮辱した。また、本多勝一が「中国の旅」でこれもありもしない南京事件を聞きかじりで後付けの取材もなく朝日新聞に書き、今の南京事件の元凶を作っている。南京大虐殺館にはその証拠となる多くの写真が飾られているが、それは中国人が満州の通洲を襲い虐殺した日本人の死体の写真なのだ。
それに付け加えるならば大江健三郎が「沖縄の旅」で軍による命令で集団自決を強制されたという虚偽を書いているが、明らかにその事実はなかったという証拠もあるのにこれも書き手からの訂正もなく知らんふりである。
物書きの責任を放棄したという事は彼らを作家とは呼べないということになる。
物書きは書いたものなに責任が伴われなくてはならない。まるで幼子が垂れ流す小便の様な性質が彼らにあり反省も責任も取れない未発達な大人たちである。
これらの欺瞞が罷り通っていることが文学を疲弊させ欺瞞と言う名のもとに退潮する原因の一端を担ったと言えないか…。
文学の欺瞞が作家の良心になってもらっては困る…。


   文学は編集者によって創られるのか・・・。2016/8/29

 若かったころ若気の至りで懸賞小説に応募をしていた時期がある。一次二次は何時も通過していたが、ある作品がその二十作に残ったときの事、賞を出す出版社は選考に対してお答えできないと言う事が常に書いてあった。と言う事はそのような問い合わせが多いという事であると解釈して、編集部に電話をかけたことがある。こちらの作品の題名と作者の名前を告げて、次回のために何処がよくなかったかと問って見た。万よく読んでくれていた編集長が電話に出てくれていて、それは私も読みましたと言う返事が聞こえてきた。
 まあ、この賞は今までの賞を取った作品を読めばどのような分野の作品が賞に近いかという事は分かっていたが、これからはどのような作品を書いたらよいのかを尋ね投稿作品の推敲をどのようにすればいいのかを尋ねた。
 私の作品についてはいい作品です、が、作品としては地味で私どもの雑誌に掲載することは、読者の選択にかなわないという判断で見送りました、と言う返答が返ってきた、そして、今回の受賞作品を読んで判断くださいと言う事を言った。
 つまり商売にはならないからという事だった。
 当選作を読んでやはり読者受けする面白いものでなくては駄目と感じた、その時の受賞者は後に直木賞を貰う志茂田景樹氏だった。
 またある時には宮本輝さんと争ったことがあった。「泥の河」を読んで完敗した事を自覚し作品が書けなくなったことがあった。
 懸賞小説は一種のオーディションの様なもので目的によって決まる。何も落ちたからと言って作品が未熟なのではなく役柄が合わなかったという事だ。
 このような話がある。
 医師で芥川賞作家の南木佳士氏が作家になる過程を彼の随筆から読み取ることが出来る。
 文学界新人賞を取る前にはその作品を文学界の編集者が投稿前に推敲しているという事実である。ここで言える事は芥川賞も編集者の推敲があってもおかしくはないという事である。取るべくして取ったと言えよう。作家になるためにはよい編集者に出会わなくてはならない、そして指摘を書きなおしその上で推敲する編集者がいると言う事なのである。
 これは一つの事例であって他になかったといいきれないことだ。
 芥川、直木両賞も本を売らんかなの出版社の餌なのだ。それに飛びついても次作が書けると言う保証はない。両賞も半年もてば次の受賞者が現われて問題にされなくなるという事だ。
 五木寛之氏は早稲田を中退した跡、ラジオ、テレビ、作詞家、構成作家をして生活していたがその間に五十作品を書き貯めをして直木賞を貰い書きためていた作品を次々と発表し人気作家として君臨した。
 物書きになろうとしている人達は賞を取る前に何十作か賞と同等のレベルの作品を書きためておくことを老婆心ながら言いたい。そうでなかったら一年も未たない前にすっかり忘れられる存在になると思っておかないと、作家で飯は食べられないのだ。
 芥川、直木賞でもう作家として飯が食べられないのだから作家と言うのはプラックなものなのだ。そして、日本国内の何百と言う賞は作家の道を開かせては貰えないことも認識しておかなくてはならない。
 これは文学青年たちがせっせと書いていたのは書くことがたのしかったと言う事だ。私もその道を歩いて来たが、原稿料を貰って書くと言う事は苦渋で命を削られたものであったから、自由に楽しんで書く趣味として書きそれを自分の証しとして自主出版をすることが一番精神的にいいことだと言う事を両方を体験して見て感じたことだ。作家とは売れる物語を書いている人達の称号ではなく、自分のために書いている人達もそのなかに入っている。
 今の出版界は、ただの金儲け、その肩棒を担いで命を縮めるという愚かなことはしてほしくないし、楽しんで書くと言う、言ってみれば道楽でもいいと思う。作家と言う価値が激減しているのだから、それに拘ることはない。
 まず、日本の古典に親しみ、大正、昭和の作品を読みあさり、時間があれば西洋の物もかみ砕き、その知識を精査して知恵に変えて自分の生きた証しとして書き遺すと言う事も作家としての仕事で、それらは先祖の人が書いたという事を子孫が掘り起こして当時を回顧する材料にでもなればその役割は大きいと言えまいか。
 作品を書きそれを道楽にして、次の時代の人達に、末孫に何か一言でも生きていける支えを与える言葉が遺せたらと言う事が重要なことなのだ。そこには読者、出版社へのこびへつらいもいらない、我儘に思う事を書き連ね、書く喜びを謳歌して見てはどうか…。

 文化に行政が首をつつ込んではろくなことがない 2016/8/30

 この問題はむしろ文化に対して邪魔をするという事である。文化は民衆が作るもので行政の指導でどうにかなるものではない。
それを如実に明らかにしているのは、文化振興とか文化連盟が設立されても文化は振興どころか停滞したままである。それらの仕事と言えば施設の管理くらいしかしていない。企画と言っても毎年同じで多少色を変えるくらいでごまかしている。とにかく仕事はしていないから新しい物は出来ない。
その施設、会館も年間の半分は使われていないと言うお粗末さである。つまり行政の丸なげで作られた団体、天下り、言ってみればそこの職員に税金を無駄に支出しているにすぎないと言う事だ。館の維持費、保全の人件費なども無駄である。これなど民間に任せる方がいい。会館の事務所で焼き肉パーティーをするバカな職員もいた。
 また、市民の生涯教育の現場として創られた施設は公務員らの退職者に占領されていて市民が入りこむことはできない。特権階級を自認して市民が来たものなら上から目線で厭な顔をする。これは区別であり差別と言うものだ。こんな施設が沢山出来ている。この実態を議員も市長も知らぬのか見て見ぬふりなのか改善されない。子供たちが来て大きな声で遊ぶと厭な顔をしてその子供たちの排斥を訴えて退ける。文化施設が一部の人達により横領されているから、市民はどこも使えない。保育園に講堂がないのでそれを貸してほしいと申し込むと利用者から喧しいと言われるからかせないと言う。この施設は市民の生涯教育のために創られた物であると言うが公務員の退職者のために創られたものであったのだ。
 また、学校区には公民館の施設を置くことが決まっているが、文化の文の字も知らぬ教育者、元校長の天下り先として館長職を与えている。
 それより驚く事は、文化会館の館長が環境課から来ていた事だ。まあ、公務員で文化に精通している人はほとんどいないからそんなもんかと言ってはおられない。開館当時には女優の村松英子が館長であり、夫の三浦朱門が理事長と言うおかしな人事が行われていた。この二人は何もせずに高給を取っていた。客寄せのパンダにもなれなかった。施設の館長職は本庁からの出向である。市の職員、文化に何の造詣もない人が退職前にのんびり過ごすところに化している。
 行政に文化に精通している職員はいない。だから、外郭団体に丸なげして税金から経費の総ては支払ってごまかしている。其の団体職員もまるで文化が分からない人達の集団なのである。新しい考える能力もなく毎年同じ事を繰り返しているだけである。
 それでは文化の振興どころか停滞がより深く沈澱するのだ。
 行政は何もせず、文化を作ろうとする人の邪魔をせずに環境を作ることである。また、文化に長けた人たちを育成しその人たちに企画や事業の提案を出してもらって毎年新しい物を作りいい物は定着させることなのだ。
 私に言わせれば、知事も、市長も、議員たちも、公務員も本気でその事を考えていないということになる。
 教育県が今日本の最下位に近づいている、これは偏に文化に対しての失政であることに気がついていない。
 民度の低下がもたらしたものであることの認識がまるでない。これを改善するためには県民の人間環境を整え、幼児教育の充実を図り、県民と膝を突き合わせて声を聞くことに尽きる。
 文化の疲弊は民度を下げ、教育も低下することを知らなくてはならない…。
 文化に対して行政は変な賞など与えず、売名行為の人達にではなく、まじめにこつこつと人のために尽くす人に「御苦労さま、頑張ってください」と言う言葉を投げかけることで十分なのだ。その人たちは自分ではなにも大層な事をしているわけでなく、当たり前の事をして生きている、この人達こそが文化を創造しているという事を感じなくては、首長としては失格である…。また、公僕としてはその役を欠いていると言えよう。
 行政が文化に首をつつ込んではならない。民衆のなかから育つという事を、江戸時代の事例から感じることだ…。

文学は堕落の汚泥のなかに華を開く 2016/8/31

 文学は堕落と言う汚泥のなかに華を咲かせたと言っても過言ではない。
 世界的に見ても世界の文学として今まだに残っている作品は時期をそこに告げている。
 これは日本と言う土壌でも同じ事が言える。古代はさることながら、維新後の日本の混乱と繁栄のなかに、日清、日露、関東大震災、米騒動、世界の株の大暴落、大東亜戦争、と続くなかにも優れた文学は書き遺されている。世情不安や、心の荒廃に何の関係もなく書かれている。が、それは根底に色濃く残してのものだ。だから読み継がれ心打たれ記憶にとどめることなのであろう。
 いいかえれば人間は堕落が好きなのである。そこにいると心が落ち着くし安らぐ、一見幸せと言う感じがするものだ。だが、人間と言うものはそれに満足が出来ないと言う本能を持っている、その一つが想いを書き連ねると言う行為である。何時の時代、どんな時代にも心の様を書き遺したいと言う希有がある。これは欲心と同じように本能として捉えた方がただしいように思う。
 今のような社会ではその本来の本能は書くことを拒否する。期待しない社会に生きていてはその気力、本能は薄れて行くのだ。
 また、文化という点からもそれは同じ作用をする。人間の欲心が強ければ書くと言う本能はおしのけられてしまう。
 人間は裕福と言う環境からは何も生み出す事は出来ないと言う事だ。少したらない、その不満が起爆になって書き遺すと言う本能が現われるのだ。
 今の世の中は皆が満足し総ての要求を満たしているのだろうか。
 何も出てこない、書くことがないという事はそれ以上に怠慢になり書き遺すと言う本能を喚起させる要素に欠けているのか。
 満ち足りた、と書いたが人と人との繋がりの希薄な状態、人の心、人が持っていなくてはならない常識などが欠落していては書くのも面倒になると言う本能の否定がある。それが今の世界、日本に、哲学と、文学の萌芽がないという事でも分かる。
 本能の退化、かつて誰もが持っていたその要求の喪失が起こったのだ。いずれ、性欲、物欲、名誉欲もその後塵を拝する宿命にある。
 この根底にあるものは人が人の事に対して繋がり、本来持っていた倫理の心の、喪失とそれを希薄にしている点が原因である。
 何のために書くのか、今の様を見ていると金儲けだけに拘り、作家と言う言葉が欲しいという不遜な考えが横溢している。爾来、書くと言う事は自分に対してのもので、それを生きる上での教訓にし、戒めにするという目的があった。が、それは子孫に遺すためでもあったが、そんないじらしい思いはなく有名になって金を儲けていと言う両方のために書くと言う事では、両損を招きかねないと言う事を知るべきである。
 知識では書けない事を知るべきである。古人はその体験から会得したものを書き遺した。作家もそれくらいの事は考えて書いてほしい。つまり知識ではなく、それを自らで実践してそれを知恵にして書いてほしいという事だ。
 相手の言葉を真摯に聞き、それを自分ならと理解し判断してと言う精査の後に自らの言葉を落とす。その人間としての常識的な倫理観は今はなく、一方的に納得させようとするものは文学ではない。
 まず人間に近づく、本来人間が持っていた人と人との繋がりの最低限度に必要とする事を何時も心において対処し、その上で人間とは何かと言う、人間への昇華をこころがけ、人と相照らすことから始めなくては、文学も人間社会も意味がない。人間の心の復活なのだ。
 また、人間は動物であるという認識を忘れてはならない。その意味は他の動物たちから教えられることだ。人間の今の暴走は他の動物たちにはない。
 地球上の生物の痕跡は三十七億年前、隕石の衝突から出来た海と稲妻からDNAが創られ、二酸化炭素と太陽の光によって成長し幾度の絶滅を繰り返し進化して今がある。その進化を閉ざしているのは人間が作り自然を破壊した文明であることを忘れてはならない。また、世界の歴史、あの虐殺の歴史から何を学ぶべきなのかと言う基礎を持って判断する知恵をこれからの人間の座標にしなくては、絶滅をしても再生する進化はないことだろう。
 こんなことを書き遺すのも、人間の本能であることと認識してほしい…。
 そこから文学が生まれる事を知ってほしい…。

文学の表現方法「坂口安吾編」 2016/9/1

 最近、坂口安吾を読みたいと思って探してみたが何処へ散乱したのか数冊しか出てこなかった。確か、安吾全集を買っていたはずであった。二男が、安吾が好きで自宅へ持ちかえっているのかも知れない。
 探していたのは「堕落論」「日本文化私観」なのだかいくら探しても見当たらなかった。
 彼の小説を私小説と言う、それも私小説の伝統をわきまえた正当なものと「福田恒存」は確信的に論評している。
 私たちの世代では私小説が沢山出版されていた。外村繁、小林暁、を代表として多くの物を書き読者へ投じていた。
この私小説は日本独特の物としてあった。身内の事を書いて問題を醸す事はしばしばであった。
 そのなかに坂口安吾が入ると言うのだ。私小説と歴史小説、風刺小説、そして、彼独特の視点での世の中で彼の持論による評論、そのなかでも私小説は群を抜いていると言う。
 これは彼が追い求めて、追い求めされた一貫したテーマによって表現方法を変えたに過ぎず、その総ては私小説を原型としているという事だ。
 若い頃安吾を読んで狂気が狂気を書いていると判断した。この狂気こそ、彼が追い求め、追いかけられたものだったと言える。
 だが、この狂気には尽きることのない人間愛とロマンが横溢している。
 今これを書いている時点では若かったころに読んだという記憶からにじみ出たものなのだ、が、いま読み返しても変わらない事を確信している。
「白痴」「櫻の樹の満開の下で」「青鬼の褌を洗う女」「風博士」を代表とする小説もさることながら彼の独白的な論評は秀逸である。
 一貫した思考であらゆる見ものを書き分ける事は常人には難しい。やはり文学につかれている狂人なのだ。
 日常生活もおよそ平凡ではなく、常軌を逸しての生きざまを惜しげもなくさらしている。それでもなおかつ人の干渉を一切受けないと言う頑迷な姿勢は物書きには大切なものと教えてくれる。それは人間の堕落の境地なのだ。それが彼に鍵ない人間のいとしさでありメッセージを内蔵させている、が、それなくして彼は創作が出来なかった。つまりなにをしても、世間に何と言われようとも、精神を自由にしてなくては書けなかったという事なのだ。堕落にあって初めて自由を掴んだと言えよう。その堕落は人に押し付けるものではなく自己を解放する手段であったのだ。
 私はもう一度坂口安吾全集を買いそろえ、精読してここに安吾の霊を呼び覚ましてみたいと思っている。
 私は文芸評論家ではない、一人の読者として書くことにする…。

文学と演劇の相違と方向性 2016/9/2

 一般的に言って文学のなかには戯曲が入る。
 その本質は変わらないが、表現の仕方が異なると言えよう。
 だが、小説家が戯曲を書く感性と、戯曲家が小説を書く感性の開きは大きい。
 まずテーマの捉え方にも相違はある。し、表現の形式にもそれは現われている。それをどのように昇華するのかが表現形式だけの問題ではない。
 小説には地の部分が大半を占めるが、戯曲の場合は台詞が全体を占める。
 私の場合は小説を書き、それを脚色すると言う形式を取って舞台の台本を仕上げる。言葉だけで文章を書く、話し言葉で台詞を書く、そこには共通点があるようだが、文字を書きつづると言う事だけは同じである。
 小説にある情景描写は、戯曲の台詞のなかに溶けこませる事になる。それを小説家は得意とはしないのだ。戯曲家は小説家の情景の描写を地の文では書くのは苦手である。
 要するに文学と言っても大きくかけ離れていると言えよう。
 小説家で戯曲が書けた人と言うと何人かと言う少なさだ。また、戯曲家が小説を書く人も少ない。
 つまり根っこの部分で大きな開きがあるからだ。書き方表現だけの問題ではない。小説家の冷静さと、戯曲家の噴き上げる情熱の違いと、文字の選択に大きな開きがあるからだ。
 小説家は文字に拘りを持って表現を試みなくてはならないが、戯曲家は日常使われている言葉で表現する、暗喩比喩を書きこみそれを伝える材料として書き込むことでしかない。動きが情景のそれに当たるが、そこに役者が介在するので思うように書き手の思惑通りには行かないこともある。
 小説より戯曲の方が書きやすいと言われるが、それは現在の若手の人達の事で本来の戯曲を学んでいればその形式を崩せないという事で難しいことだ。
 小説には私小説と二、参、の人称で書くものだが、戯曲はより多くの人称で書かなくてはならない。
 まあ、それは訓練でかいくぐること出来るものだが、書き手に拘りがあってかき分ける事はなかなか難しいことなのだ。
 歴史から言えば、戯曲、台本に方がはるかに古い。最古の長編小説と言う「源氏物語」が小説の形態を持って書き現わされているが、当時の白拍子の踊りには台本的なものが必要であったはずである。
 現在、小説も戯曲も衰退の一途をたどっている、それを民度の低さだけで捉えられないことだ。つまり、両者の書き手は人間の本能を見出す能力に欠けている点で共通している。
 では人間の本能とは何か、近代化の波にもまれて次々と新しい本能が生まれている、それがなくては人間としては行き継ぐことが出来なくなっている。その事に気が付いていないようでは文学の新世紀は生まれないし、今のままではなにも変えられないことの認識がない。
 今、混迷しているならば過去の文学に親しみ、今との対比を試みることが重要だ。
 その人達、先人の文学者たちがどのような生活をし、なにを思い考えたのか、また、その当時の社会情勢、環境を知ることで対比し、今人間は何を必要としているのかを探り当てなくてはならない。
 そこに新しい人間の本能を見いだせた時に文学の再生はある。
 そこで、人間とは進歩をするという本能を見出すだろう。ものすごい速さで人間は進歩をしている、それは社会が要求するゆえではあるが、それが本能として今私たちの前にある事を忘れてはならない。
 生きる社会のよって人間の本能は変遷する、価値観の相違ではなくそれは隠されていた本能なのである。
 ここに書いた本能は数限りある本能のなかの一つであるが、今のスピートの世のなかでは次々と新しい本能を誕生させなくては生きてはおられないことも確かである。
 小説家も戯曲家もそれに敏感に反応しなくては流れには乗れない。
 だが、これから何が立ちはだかるのか、それはロボットの書き手たちである事を記憶にとどめなくてはならない。
 文学はかつてあったが、これからは人間ではなく人口頭脳を持ったロボットによってとってかわられる運命として受け止めなくてはならない。
 では人間は何を…。
 それは進化して新しい環境に必要な本能が出てくるのを待たなくてはならないことだ。

 小説、戯曲と言う事で書いたがこれはむなしい題材であることに、気づいたという事で少し混乱した…。

文学のゆくへはどうなるのか 2016/9/7

 混沌としている文学界、愛も変わらず芥川、直木賞は決まっているが、それが日本の文学の振興に寄与するだろうか。
 私は悲観的に捉えている。その根拠は文学を商売の金儲けに使われていることだ。
 出版界の雄と言われている「幻冬舎」の作品目録を見れば今の読者の読むレベル、求めている作品内容の物がほとんどだと言う事である。
 政財界に顔のきく見城氏がそれを利用して事前に市場調査を行い読者のニーズをとらえて企画を作っている。読者には選ぶ権利もなくあてがわれたものを読むことが強いられることになる。これでは新しいものが生まれるはずがない。また、読者の知識も見識もその程度より上がる事はない。その方がより儲かると言う算段なのである。
 何度も書くが、知恵のない作家が新しく人間を社会を見通せるはずがない。
 それより、昔の作家のように古今東西の文学、哲学、心理学、経済学に走らんふりでは現代と非かますることで生まれる新しい思考知識など持ち合わせてはいないと言う事だ。偏に書き手の勉強不足と怠惰な生活がもとではその必然は書けないのが当たり前と言う事だ。
 書き手もむ民度の低さをム利用手自らのむ生活から生まれる知恵を持たずそれを身につけようと歯しない。
 そんな世の中においてその人達に真の文学がもてはやされるとは到底考えられない。
 安物の弁士が語る講演会に太い枚な札を払いそのかすを聞いて勉強したという自己満足に終わっている。
 それでは文学の底辺の民度が劣化するのは当たり前である。
 村上春樹と三島由紀夫をくらべてその優劣がつかない物書きと読者では話にならない。
 このあたりで、インスタンコーヒーの味と、豆を焼き、それをひいて、サイホンで淹れたコーヒーの味を較べる勇気ある行為を望みたい。
 今の世に、哲学も文学も宗教もないという事は言えそうである。これが人間にとっての良否の判断にはならないことだろう…。


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